4.13.2017

動き出すために錨を上げ、立ち止まるために錨を降ろす

(これは、みよしひろきさんがご自分のフェイスブックで投稿されたひとこと「暴力の連鎖、何とか止められないものでしょうか?」に対してコメントしたその続きです)

1 みよしひろゆきさんによる問題提起(2017年4月10日
(「エジプト非常事態宣言へ 教会爆破、IS襲撃予告を警戒」と題する朝日新聞へのリンクを張りつつ)
 ロンドン、スウェーデン、ロシア、エジプト、世界中でテロが続きますね。シリアはシリアで、トマホーク打ち込まれてしまいましたし。暴力の連鎖、何とか止められないものでしょうか?

2 みよしひろゆきさんの投稿に対するコーシカのコメント2017年4月13日
 誰もが立ち止まって少し考えてみる、ということに尽きると思います。ことばも育ちも文化も全然違うにしても、地球という向こう三軒両隣で、時に鬱陶しい、鼻面に一発食らわせてやりたい相手もいる中で、どうやってつかみ合いの喧嘩にせずに上手くやっていくか。これを11人が意識すること、自分の一挙手一投足があるいは世界の趨勢にさえ影響しているかもしれないという畏れを意識して生きること。そういう意識と覚悟を持って生きる気概があるかどうか、そこが問題だと思います。

3 その続き(2017年4月13日)
(まずは聖書から引用)
 どうして兄弟に、「あなたの目からわらを抜き取らせてください」と言えるのですか。しかも、ご覧なさい、自分の目の中には垂木があるのです。偽善者よ!まず自分の目から垂木を抜き取りなさい。そうすれば、兄弟の目からわらを抜き取る方法がはっきり分かるでしょう。(マタイによる書7:4,5
(ここから本文)
(1)意識、畏れといったものは、宗教本来の役どころのはずなのですが。あいつはどうしようもないバカだが、俺もたいがいだな…と、自らの弱さ、どちらさんも心の内には悪があるんよという事実に目を向けさせるのが本来の姿のはず。
(2)たとえばキリスト教なら、神様、自分はどうしようもない弱い奴であなたの設計どおりにはとても機能できてないですけど真人間になりたいです、どうかお宅の息子さんに免じて見捨てないでください(あがない)となり、浄土真宗なら、自分はダメだとわかってりゃこその阿弥陀さまにどこまでもついてきますよ(悪人正機)となり、禅宗なら、心の内にあるくだらない考えをすっ飛ばすために座禅を組み、イスラームやユダヤ教なら、しょうもない自分でも少しでもまともになれるよう、ムハンマドやモーセやラビが遺してくれたルールを守る…などなど。意志が弱くてふらふらしている自分に向き合い、錨をつけるというのが本来の姿のはず(ヘブライ人への手紙6:19)。
(3)錨→束縛と短絡する人もいますけど、船は錨を巻き上げながら出航して、目的の港で確実に停泊するために錨を降ろすわけで、やっぱり捨ててはいけないものだと思います(ヘブライ人への手紙11:1,27)。
(4)ただし、宗教とか信心は何のためにあるのか、そこは立ち止まってよく考える必要もあります。マルクスの言うようにアヘンですから、用法用量を分かって使わないと、エラいことになります。正しく使えれば、痛みで絶望している末期がんの患者さんに生きる希望を与えるものともなり、ちょっと間違うと溺れて身も心もボロボロ…これは劇薬で、どういう風に作用するのか、どんな副作用があり得るのか。そういう意味では、お酒との付き合い方と似ている気がします。先輩の失敗談を見聞きしつつ、自分も下手を撃ちつつ、自分なりの距離感を見つけてゆく。油断はできないものの、それほど難しいことでもないと思います。

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