5.09.2017

備忘録:一番苦しいこと、生きているということ

1 一番苦しいこと
(1)人間にとって一番苦しいことは、物理的な痛みとかではなく、心が、感性が通じ合わないこと、それも物理的に近くにいる(いなければならない)人と間でそういう状況に陥ることではないか。
(2)うちの父は、「そういう人間を相手にしないといけない時は、あぁ人間というのはこれほどダメになり得るのか、この人はそれを身をもって示してくれているのだと思うようにすればよい」と言ってくれた。

2 痛み(物理)への耐性
(1)食べものを絶たれても、人間はしばらくもつ。モーセとかエリヤとかイエス・キリストとかブッダとか。まぁこういうのは極めて特殊な例外としても、物理的な衝撃に対しては、生体がバランスを崩さないように巧く設計されている。
(2)例えば極端な負傷の場合、電気で言う遮断機(ブレーカ)が落ちたような状態になって、脳は痛みを感じなくなる。手や足を失ってしまうような大怪我をした人に話を聞くと、失った瞬間もその後も、死ぬほど痛いということはなく、しばらくしてからじわじわ痛みはくるものの、泣き叫ぶような性質のものではないらしい。

3 痛み(精神)の作用の仕方
(1)では精神的な衝撃に対してはどうかというと、恐らく、先ず感性が鈍くなる(たぶん、電気回路の遮断のような予防措置が心でも生じているのだと思う)。鈍い感性では繊細な動きを感じられなくなるので、感動がなくなる。ユーモアは、繊細さを感じる余裕に裏打ちされた感性があればこそ発信もできれば笑うことも出来るものだと思うので、感動がなくなればユーモアもなくなる。
(2)こうした感覚が摩滅した例として、梶井基次郎『檸檬』の出だしには、蓄音機を聴きに出かけても最初の23小節でアウトといった一節や、ラストちょい前にも、丸善に入ってもちっとも面白くない…という描写がある。谷崎潤一郎の『秘密』のラストの、秘密なんてぬるいものではなくもっと毒々しいものを!となってしまった…的な描写も例に挙げられると思う。
(3)ただ、最初に鈍くなる感性というやつも曲者で、これはある意味、それまでどれほど感性豊かな体験をしてきたか、どういう感性の人とつきあって「面白い!」を磨いてきたか、そういう積み上げというか教養というか間口の広さのような面もあるように思うので、相手によっては100%の状態で既に感性が鈍い、ということも十分あり得てしまう。そうなると端からおはなしにならない。

4 身体だけ生きている状態
(1)感動がなくユーモアがなくなると人間は生きていけないかというと、とりあえず身体は死なない。栄養がそこそこ行き渡って神経も循環器も免疫などなども元気で、生体をそこそこ再生して維持できる状態なら、とりあえず身体は死なない。
(2)ただ、その状態でもおまんまを頂く必要があり、食い扶持を稼ぐためには何らかの仕事をしなければならないわけで、結果、そういう感動もユーモアもない奴に付き合わないといけないかわいそうな人が発生してしまう。向こうも同じく無感動ユーモア欠落症なら差し引きトントンで大して問題ではないけど、片やユーモア欠落、片や感性しっかりだと後者は辛い。

5 身も心も生きるための錨
(1)ここで、生きているとはどういう状態かと考えてみる。聖書には、人はパンだけによって生きるのではないという言葉があり(申命記8:3)、これは大事なことなので少なくとも3回は言われている(マタイ4:10;ルカ4:4)。また、人がどうやって創られたかの記述も面白い。人は「神のかたち」という設計コンセプトで(創世記1:26,27)、まず文字どおりの人の形に土をこしらえ、その後に神が息吹を吹き込んでやっと人になっている(創世記2:7)。人が人として一人前になるには、身体だけでは不十分で、相応の魂、感性があってこそ人として生きていると言える。それを忘れないように、と聖書(に限らず宗教や道徳の類)は戒めてくれているのだと思う。
(2)身体だけ生きているとどうなるのかについても、聖書にはえげつないスケッチがいっぱいある。形だけの信心など無益という戒めは、ぱっと思いついただけでも、イザヤ1:11-17、ヨエル2:13、アモス6:25、ミカ6:8、マタイ23章、ヤコブ2章などなど数知れず。これはもう「生きているとの名は持っているが、実は死んでいる」(啓示3:1)という状態。
(3)イエス・キリストは、一番大事なのは心、思い、魂を込めた信心だ!(マタイ22:37)を切り口に、人間が身体だけではなく本当の意味で生きているとはどういうことなのかを基本設計まで遡って、でもシンプルに考えましょうという提案をしたのだと思う(マタイ22:40;ルカ10:42)。

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