4.08.2018

自戒:怒る間があれば動け!

「愚鈍な者にその愚かさに従って応えてはならない。あなた自身もそれに等しい者とならないためである」箴言25章4節。
【自戒】誰かに対し、「あんな奴は生きている値打ちがない!」と思う間があれば、それを上回る何かを生産するために動け!
たとえその「生きている値打ちがない奴」がマイナス1では飽き足らずマイナス5の害を為すとしても、自分はプラス105くらいをそいつの鼻っ柱に叩きつけてやる!という気概で行動すれば、結果は差し引き大きなプラスになる。
マザーテレサは、愛の反対は憎しみではなく無視することだという意味のことを言ったそうだが、小悪党を巨悪になって文字どおり踏み潰すよりも、存在そのものをなかったことにできる程度にプラスをぶつけてやる方がよほど心地が好い。
イエス・キリスト曰く、「知恵はその働きによって義にかなっていることが示される」(マタイによる書11章19節)。生きている値打ちがない奴がいる=あってはならないものがある!と感じられるほどのセンスがあるなら、それを打ち消してなお上回るものを引っ張って来い!

4.07.2018

理なくば立たず:「触らない痴漢」とかいう愚問

「しかし、もしあなたが悪を行っているのであれば、恐れなさい。[支配者]はいたずらに剣を帯びているのではないからです。それは神の奉仕者であり、悪を慣わしにする者に憤りを表明する復讐者なのです」ローマ人への手紙13章4節
友人から教えてもらった記事。こんな馬鹿な話をどうしても事件にでっち上げるつもりなら、原告に対する精神鑑定を絶対条件にする必要があるでしょう。匂いをかいできたから痴漢!あたしが不快だからコイツは痴漢!などという口実で立件するのはもはや暴力であり、のび太!むしゃくしゃするからお前を殴らせろ!、はい!アンタは眼鏡かけてるから知識人=労働者じゃないから死刑!という言いがかりと同類です。国家権力が暴力を独占しているのは、現し世(うつしよ)が機嫌よく回るためなのであって、こういう頭のおかしい奴のケンリだとかジンケンだとかいうものを守るふりをして臭い物に蓋をするためではないでしょう。
使徒パウロは異教の都ローマに暮らす信仰の仲間に宛てた手紙の13章で、支配者=国家権力に服するようにと諭していますが、それは次のような意味であろうと思うのです。今みなで生きている世の中というものは、神の王国という理想郷が来るまでの仮住まいだとはいえ、その世の中が多少なりともまともに近い形で機能できるように皇帝なり行政機関なりがあって、彼らなりにがんばって世の中が回るようにやっているという意味で、支配者=国家権力というのは神様の僕としてそれなりに仕事してる訳ですから、たとえ理不尽な場面があっても、そこは神様の顔に免じて従おうじゃないですか。
何も警察や法曹関係の方に「我々は秩序を守る点での神の僕ッ!」という気概を持ってくれなどとは申しません。現代は神なき時代、というより皆でよってたかって神様を殺してしまって依る辺をなくして途方にくれている時代なのですから。たとえ嘘でも「剣を帯びる」すなわち国家の名において暴力を行使できる立場に自ら望んでその身を置いていて実際に在籍しているのであれば、その権力をどのような法解釈で使えば「こいつはあたしの匂いを嗅ごうとしてきたから痴漢です!」、「あたしがキモいと思ったからこいつは痴漢です!」とわめく頭のおかしい奴の主張を「黙れ!ここを何と心得る!」と斥けられるかという問題意識は忘れずにいていただきたいものです。頭のおかしい奴とそれを相手にしないといけないというレベルでは点の事象でも、それを受理し、あろうことか立件してしまい、決してあってはならんことですが原告が勝訴したりしたら!それはもう、「皆さん!この世の中では結局声の大きい奴が正義なのですよ!」という免罪符を国家の名において=神なき世にあって唯一人を超えた存在として知覚できる者の名において下賜するに等しい行為なのだということを思っていただきたいものです。
とはいえこういう頭のおかしい手合いは、自分の主張が認められるためだったら他人がどれだけ苦しもうが死のうが一向に構わないという向きですから、また困ったことに、こういう奴が(どこでそんなムズカシイことを覚えてきたのか)口にするケンリだとかジンケンだとかミンシュシュギだとかいう音のパターンに脊髄反射する(これまたどこでどうやって手に入れたのか知りませんが)弁護士のバッジを持った輩ですとか、こういう音のパターンに反応する自称知識人とか自称ジャーナリズムがいますから、上に書いたようなまともな反応ができる警官や法曹関係者は淘汰されがちかと思われます。
ところで皆さん、僕には帰る国がありません(力なく苦笑)

3.29.2018

【疑問】業績を成功の数ではなく、絶対値でカウントできないものか

【趣旨】何をどうやって失敗したかという経過は、共有知と呼ぶに十分値するものと考えます。
【本文】
1 「これだけはやってはいけない」を共有する
(1) 学術研究の世界では、研究成果を論文として発表することが目に見える具体的な業績とみなされます。しかしながら、発表する研究成果は果たして成功例だけでよいのでしょうか。旋盤工で作家の小関智弘さんは「現場は宝の山」と書かれています(小関智弘「ものづくりの時代:町工場の挑戦」NHK出版、2002年)。現場には成功例以上に失敗例がたくさんあるはずです。
(2) 「AをBすればCとなる」という仮説に基いて実験をしてみたところ、「AをBするはずだったのに、実際にやってみたらDという、やってみるまで分からなかった要素が邪魔をしてEという結果が出た。だからこのアプローチは使えませんよ」といった、何をどうやって失敗したのかということも大切な共有知のはず。こうした失敗談を公開すれば、「いや、Dという要素も曲者ですけれども、Fという切り口から眺めますとGという要素もクリアすべき課題ですからお忘れなく」とか「Dは確かに邪魔ですけど、Hという要素をぶつけてやると緩和できるのですよ」とか「DをHで緩和しても、得られたのは結局Iでした。うちはCが欲しかったのですが、IはIで、JとかKという方向で将来性がありそうです」といった助け舟をお互いに出せると思うのです。それを基に成功できれば、いつどこで誰の手柄になるかはともかくとして、人類全体ではプラスになります。
2 「謙遜(humility)は栄光に先立つ」(箴言15章33節)
(1) 行動した結果の失敗というのは、それ単独で見た場合は確かにマイナスだとしても、何らかの成果を得ようとして動いたことは間違いない訳ですから、動いたことそのものを絶対値として業績にカウントしても良いと思うのです。
(2) 例えば、バッタ博士の前野ウルド浩太郎博士は(学術論文の中ではなく一般向けの「バッタを倒しにアフリカへ」光文社新書、2017年の中で、ですが)失敗談を共有してくださっています。バッタの飼育ケージを置いた場所は内陸だったはずなのに、実は潮風がそんな遠くまで届いていたためにケージの金網が腐食して使えなくなったこと、ゴミムシダマシの行動パターンを調べようと野外観察を始めたところ、天敵が検体を捕食してしまって苦労されたことなどなど。その他にも観察容器の用を足すものはないか!と試行錯誤されるくだり等は、同業者はもちろん全然畑の違う僕でも強く記憶に残るくらいに有益な情報だと思います。それに、「バッタを倒しにアフリカへ」光文社新書、2017年は学術論文ではないにしても、単著としてカウントされるはず。
(3) 例えばの話ですが、どこかの企業の開発部なりどこかの研究所なりの業務報告のうち、何かをやって失敗した部分だからといって、どうせこんなものは実らなかったのだから持ち出したっていいだろう…と外部に漏らしたりしたら大変な騒ぎになるはずです。少なくとも、どこが何をどういう人員体制でどこまでやっているのかは(見る人が見れば)分かるわけですから。してみると、たかが失敗談されど途中経過なのです。もっとも、同じ失敗を「我が恥」と自分や身内レベルだけで見るのか「人類全体の役に立つ成果に至る途中経過」と広く捉えられるのかはセンス次第ですけれども…(了)
【なんでこんなことを思いついたのか~その1:今日のお昼休みの会話】
A: 派遣法が改正され、非正規労働者が同一の職場で同一の業務に3年以上継続して従事する場合、就労先はその非正規職員を正規職員として採用することが義務化された。この制度は本来非正規労働者の権利を守ることを目的としたものであったはずだが、実際には従来非正規のままで更新できていた契約を打ち切らざるを得ないような状況も生じている。
B: 研究機関でも同様の事態が生じて問題になっている。例えば非常勤研究者を雇う余裕はあるが正規職員を雇えるほどに余裕がない研究機関で、従来は非正規の契約のままでの連続更新が可能だったところ、派遣法改正に伴って契約を打ち切らざるを得なくなっている。そうした状況でも昨今は「●年間で論文●本!」という風にとにかく業績の数が求められるため、追い込まれた研究者がデータを捏造してしまう恐れがある。
C: それでは、「ある仮説に基いて実証実験をしてみたところ、実はまるでダメだということが明らかになった」という内容をきちんとまとめたものも業績として認めればよいのではないか。
A: いや、それを認めてしまうと誰もがその手口に逃げてしまって収拾が付かなくなる。
B: そういう谷間で研究費を不正流用するような奴はいる。しかしそれを防ぐためにギリギリ締め上げた挙句、サイエンスやネイチャーといった世界の一流誌に載るような研究ができなくなるというのもいかがなものかと思う。
【なんでこんなことを思いついたのか~その2:父方の祖父】
(1) 父方の祖父は中国から復員後に僕の実家の家業の鉄工所を興したのですが、経営と営業の面で長くタッグを組んだ父から、祖父とのバトルの話をあれこれ聞きました。その中に、祖父は失敗した試みを再現しようとして困った…というエピソードがあります。
父:何しとん?こないだそれやって失敗したのに何でまたやるん?
爺:だからまたやるんや!
父:勝手にせい!(このおっさんはホンマにもう!うちは首が回らへんのに…)
父の僕に語って曰く、その当時は祖父の意図がさっぱり読めなかったが、自分(父)も当時の祖父と同じ歳になり、「あぁ、親父は何がどうなってどこで失敗したのか、その過程を確かめたかったんやな」と思う。
(2) 父は僕と同じく話し好きな人で、鉄工所の経営者だけあって色々な引き出しのある人です。父と祖父の間は色々ありまして、愛憎悲喜こもごもといった関係です。それでも、祖父が製造現場に立てなくなってついには鬼籍に入ってからも、父は事あるごとに、祖父にあんなことやこんなことをさせてあげられる機会があったのになぁ…と申し訳なさそうに話してくれます。「親父(祖父)は生前こんなアイデアやあんなアプローチがあるということを常々口にしていた。例えばアルミをダイカスト(圧力鋳造)で成型する場合に、アルミ合金に金を含有させてみてはどうかというアイデアを口にしていた。金を含ませたアルミ合金は、親父の表現ではよく「濡れる」ので、金型に溶湯を圧入する際に既存の方法よりもより確実に隅々まで行き渡らせることができて中味の詰まった製品ができるはずだ、と。とはいえ、金のような値の張るものをおいそれと用意できるはずもなく、結局その案は試せず終いになってしまった。うちの業績がもっと好調で自分(父)にももっと資金を工面できる力があれば、色々なことを思う存分実験させてやれたのに…」といった具合です。
(3) そんな祖父なら、失敗談をとてもありがたがったと思うのです。実際にどんな顔や態度で応対するかはともかく。少なくとも「聞いて忘れる」ことはなく、「しっかり聴いて」忘れたふりをすることはあっても、何かしらの形で我がものにし(たつもりになって何かプラスして、オリジナル以上に盛大に自爆し、ひとしきり怒りまくった後で、失敗を踏まえてまた何か試み)たと思うのです。

3.22.2018

人が人を殺すということを考える場合の論理とその矛盾について:国家レベルの戦争と人間同士のケンカを比べることの危険性

(フェイスブックに書いたものの再掲です。あそこでは後から見直すのが難しいですもん…)
【結論】
●国家同士の戦争では相互確証破壊が抑止力になり得ても、人間同士のケンカの果ての殺人に抑止力はない。国家は人が作り出した概念=道具であるのに対し、人はシステムになぞらえることはできてもそれ以上に複雑な存在。人が作り出した概念と人そのものを同一視すべきではない。
●抑止=これはやらないでおこうという消極論や恥の意識を超え、それをやったら人間として終わりという罪の意識を持って怒りを制御する=自分の意志で自分の人間性を守るために行動することが必要。
【本文】
1 前置き~なんでこんなことを考えてるのか
(1) 人が誰かを殺してやりたい!とまで思いつめる場合、どういう論理で殺人を正当化するのかということを今日はいつもより深めに考えてみました。友達と話しているうちに、魯迅の狂人日記の冒頭にある「書いてあることは気がふれた人が言いそうな典型で無茶苦茶なんやけど、見る人が見たら参考になりそうやし、人名地名とか以外は手を入れずにそのまま書いてます」といった但し書きのことを思い出しました。人が誰かを殺してやりたい!と思うなど正に狂気。どうやってそんな狂気に至るのかを文章化してみたら…明日には解雇かもしれませんね(苦笑)。まぁ精神病理の教科書にはとっくに載ってることかもしれませんが、せっかく考えたのでまとめてみます。
(2) 1989年のアメリカ映画に「ブラック・レイン」というものがあります。それの原作だかノベライズ版だかがなぜか高校の図書室にあって読み、高倉健扮する松本警部補が英語でマイケル・ダグラス扮するアメリカ人刑事とやり取りしつつ事件を解決してゆく様に憧れ、「ことばを使って仕事がしたい!」というミーハー心を特に抑えずにおりましたところ、サウイフモノニワタシハナッテシマッて、現在ミンスクで曲がりなりにも仕事をさせていただいているという次第です(わはは)。ま、それはともかく。作中、マイケル・ダグラス扮する刑事が松田優作扮する日本人ヤクザのサトウをアメリカでとっ捕まえて日本に護送する飛行機の機内で、サトウが色々とマイケル・ダグラスを挑発するので、マイケル・ダグラスは「このバカを文字どおり殺してしまったら自分はいったいどういう処罰を受けるのか」を考えることでかろうじて自分を抑えるというシーンがあります。たぶん映画では、サトウが何かマイケル・ダグラスの気に障る仕草を(わざと)やって、ブチ切れたマイケル・ダグラスがおもむろに伸びをするついでにサトウの頭に肘鉄をガン!とお見舞いするという描写だったかと記憶しています(しかもその後、サトウは受けた傷から出た自分の血を見た上で、マイケル・ダグラスに嘲笑的な視線を向けるのですよ!あ~ムカつく!)まぁそれもともかく。
(3) 人が誰かを殺してやりたい!とまで思いつめる場合に、どういう思考過程を経て正当化してしまうのか、どうやったら回避できるのかということを考えてみました。
2 国家間の戦争の場合は抑止力で十分
(1) さて本題。国家がやってはいけないことは色々ありますが、その最たるものは戦争になるのでしょう。でもでも、「♪わかっちゃいるけどやめられない」で有史以来ず~っと戦が続いてきました。1625年になってようやく、オランダのグロティウスさんが「戦争と平和の法」を著し、「あのな、戦争はやったらあかんのやけど、それでもどうしてもやってしまう場合はある。その時でも、せめてこれだけは守ろうやないの」ということで国際法ができたのだそうです。たとえ戦争であっても、捕虜を虐待したらあかんよ、拷問したらあかんよ、あんまりえげつない兵器使たらあかんよ、兵隊さんとか軍事施設以外を攻撃したらあかんよ…などなど、一応禁止事項が決められました(え、ドレスデン空襲? 東京大空襲? 広島・長崎への核攻撃? 満州・樺太・千島へのソ連の侵攻? 枯葉剤? 劣化ウラン弾? グアンタナモ? こまけぇこたぁいいんだよ、勝っちゃえば! )。やってはいけない戦争の中で決してやってはいけないこと。それは核・化学・生物兵器といった大量破壊兵器の使用でありましょう。
(2) それでも時々検討対象になってるらしい核使用シナリオ。これがなぜ実行に移されないかと言いますと、核攻撃に見合うだけのメリットが見込めないからに尽きます。今日3月18日にめでたく(?)再選されたロシアのプーチン大統領は、欧米に睨みをきかせるために時々核使っちゃおうかな~シナリオを検討しているそうですが、いくら彼が強面でも本当に核を撃つことはない。核は基本的に5大国(米露英仏中)しか持っていなくて、相互確証破壊(MAD)が成立しているので撃ったが最期ということを分かっているから(とは言いつつも実は結構ヤバい局面が冷戦中に何度もあったそうです)。1998年にはインドとパキスタンが相次いで核武装しました。当時僕は学部生でしたが、国際関係というかポーランド外交史専門の先生が、「彼らの核は5大国の核と違って数が少ないので、本当に使われる恐れがあって危ない」という意味のことを講義で仰っていました(今は両国ともにそれなりの数を揃えて相互確証破壊が成り立っていそうですけども)。北朝鮮の核も、いよいよ追い詰められて敵と心中という「死なばもろとも」シナリオ発動! となった場合は使われる恐れがあると言われています。とはいえ、金正恩氏だって心中したくて核武装してる訳ではないでしょうから、撃ったが最期ということは流石に分かっているはずです。「あいつをぶっ殺してやりたいけど、俺だって死にたくないからやっぱり使わないでおこう」となって抑止力が働く。核兵器は持っていることに意義がある(使う奴はバカ! な)兵器だと言えそうです。化学兵器はイラン・イラク戦争とか、最近ですとシリア内戦で使用されて問題になっていますが、あれだけ話題になるということは、少なくとも超えてはいけない一線を越えてしまったという認識が共有されているからなのでしょう。
3 ケンカの果ての殺人に抑止力はない
(1) さて、ではこれを一個人のレベルに落として考えてみますと、国家が決してやってはいけない戦争はケンカ、核を含む大量破壊兵器の使用は殺人にそれぞれ当てはまるかと思われます。ただ、人と人が文字どおり殴り合うケンカの場合、核戦争と違って相互確証破壊が成立しません。喧嘩両成敗ですが、学校だと先生と両親からこっぴどく怒られたり停学ないし退学を食らったり、会社だと減給されたり解雇されることはあっても、命まで取られることはないですから戦争における核使用と違ってあまり抑止力にならない。下手すると、相手を文字どおり殺したところで何年間かムショで冷や飯食えば命まで取られないんだからいいか…などと考えることだってできてしまう訳です!これに、どうせ俺独り者で定職もないしお先真っ暗だし…というような尾ひれがついたりすると、殺人の敷居は下がる一方。大変危険です。いくら独り者=妻子がいないとはいえ、親兄弟はいるでしょう?!失うものは大きいですよ!
(2) よく考えてみますと、国家というものは人類登場以来あったものではなく、人間が生存の術の一つとして考案したシステムないし共通認識でしかない訳で、つまりは人の創りし道具に過ぎない訳です。他方、国家を含むあれこれを考えつく人間は、ある程度システムになぞらえて説明することはできても、実際はもっともっと複雑てゆうか魑魅魍魎? な存在です。自分で造った道具と同じレベルで考えていてはひどい間違いを犯します。火傷も色々ありますが、あまりに重症だと傷跡がずっと残ります。国家同士の核戦争では何とか機能してきた相互確証破壊も、個人レベルのケンカの果ての殺人というシナリオでは機能しないことを知るべきでありましょう。てゆうか自分で造った道具とそれを造った自分を同じ土俵で考えててどうするよ?
(3) 怒り心頭に達した状態では、妻子がいるから親兄弟が悲しむから殺人を思い留まるというようなことにはならないと思います。なぜなら妻子も親兄弟も自分自身ではないから。核戦争で相互確証破壊が抑止力として機能するのは、悲しいかな自分が害を被るから思い留まることができるのです。では、あいつを殺してやりたい! という怒りの核分裂反応における制御棒になり得るものは何か。それは妻子や親兄弟が悲しむから世間様に申し訳が立たないからというような「恥」レベルの屁理屈ではなく、人間としてそれをやったら終わりなのッ!という「罪」レベルでの動機付けです。
4 結論:神の似姿たるを忘れるなかれ
(1) 仕事で死刑問題についてのセミナーに参加したことがあります。ベラルーシからもEUからも偉いさんが出席してましたが、EU側から確かギリシアの元大臣でしたが、彼は人間性を失わないために死刑に反対するのだ、という論旨の発言をされました。曰く、「人を殺すとは誠にけしからん、あんな奴は死刑にしてしまえ!という気持ちはわかる。でもそうやって殺人者を殺してしまうことで、実は自分の内にある人間性をも殺してしまうことになるのだ」。
(2) 聖書の最初の書・創世記には神が人を創造するくだりがあり、そこには「私たちと似た様に人を創ろう」(創世記1章26節)とあります。大学院では、ドストエフスキーは人間性をこの「神の似姿」に求めたのだと習いました。だから、たとえ強欲な金貸しのばーさんであっても、殺すという凶行に及んだ時点でアウトなのです。聖書の巻末・啓示の書に出てくる4つの生きものは、それぞれ神の属性を現す顔を持っています(啓示4章7節)。鷲は知恵、雄牛は力、獅子は公正ときて、人の顔は何やった? 愛やろ?
(3) ということで、人であるために、人間としての自分を守るために戦います。う~む、まだぼんやりしとる…正しいと習ったとおりの行動をするために戦います。ではどうやって? 孫子曰く、百戦百勝は善の善なるものにあらず。兵法三十六計の結びにも走(に)げるを上と為すとあります。四つに組むだけが相撲ではありません。勝利条件は、ホモサピエンスとして生き延びることではなく、神の似姿たる人であり続けること、です!(おしまい)
【書ききれなかったもの】悪魔化(demonize)。
(1) 悪魔化とは? ちゃんとした悪魔学の定義は知りません。僕が考えているのは、雨が降るのもバスに乗り遅れたのも気になるあの子が僕につれないのも弁当が不味いのも、みんなあいつが悪いんだ! 的な思考のことです。ん~電気溶接ができてしまいそうな短絡っぷりですね。ずっと腹を立ててますと、こういう悪魔化をやってしまいます。だって思考を止められて楽なんだもの。
(2) 個人的には人間が一番やってはいけないことが思考停止だと思っています。聖書の創世記3章で人が罪に堕ちてゆく様が描かれていますが、あれは思考停止がいかにアホなことかということをこれでもか!というほど教えてくれています。「あんさんが与えてくれはった女、その女が食え言うたんです!」ってなんやねん。すんませんでした!言うて腹切らんかいボケ!と読者としては思いますが、悪魔化しとるお前に言われたないわ! と返ってきそうです。
(3)カン・サンジュン「悪の力」集英社新書、2015年でも読み直してみようかと思います。

7.15.2017

爺さまと酒

祖父は父方も母方も酒好きでした。父は酒で暴れる祖父を見て育った上に呑めない体質なので、僕がくいくい呑むとすごく心配します。父は祖父とのやりとりというかバトルを通じて「人の話は正確に精密に聴かんといかん!」と常々言っている人です。いわば、ことばで精密なスケッチを描く人(または話のくどい人)です。その父を通じて聞く祖父は、今にして思えば、酒でも喰らって暴れたくなるような状況に日々直面していたのだろうと思います。
母方の祖父は、医者に酒を控えるように言われたからビールを飲むようにした!というような人で、たばこも多少はたしなみつつ、結局100歳のお祝いをしてもらって大往生しました。
こういう遺伝子がそこそこに交じり合ってしまうと、本人も、たぶん周りも大変です(笑)。

5.09.2017

備忘録:一番苦しいこと、生きているということ

1 一番苦しいこと
(1)人間にとって一番苦しいことは、物理的な痛みとかではなく、心が、感性が通じ合わないこと、それも物理的に近くにいる(いなければならない)人と間でそういう状況に陥ることではないか。
(2)うちの父は、「そういう人間を相手にしないといけない時は、あぁ人間というのはこれほどダメになり得るのか、この人はそれを身をもって示してくれているのだと思うようにすればよい」と言ってくれた。

2 痛み(物理)への耐性
(1)食べものを絶たれても、人間はしばらくもつ。モーセとかエリヤとかイエス・キリストとかブッダとか。まぁこういうのは極めて特殊な例外としても、物理的な衝撃に対しては、生体がバランスを崩さないように巧く設計されている。
(2)例えば極端な負傷の場合、電気で言う遮断機(ブレーカ)が落ちたような状態になって、脳は痛みを感じなくなる。手や足を失ってしまうような大怪我をした人に話を聞くと、失った瞬間もその後も、死ぬほど痛いということはなく、しばらくしてからじわじわ痛みはくるものの、泣き叫ぶような性質のものではないらしい。

3 痛み(精神)の作用の仕方
(1)では精神的な衝撃に対してはどうかというと、恐らく、先ず感性が鈍くなる(たぶん、電気回路の遮断のような予防措置が心でも生じているのだと思う)。鈍い感性では繊細な動きを感じられなくなるので、感動がなくなる。ユーモアは、繊細さを感じる余裕に裏打ちされた感性があればこそ発信もできれば笑うことも出来るものだと思うので、感動がなくなればユーモアもなくなる。
(2)こうした感覚が摩滅した例として、梶井基次郎『檸檬』の出だしには、蓄音機を聴きに出かけても最初の23小節でアウトといった一節や、ラストちょい前にも、丸善に入ってもちっとも面白くない…という描写がある。谷崎潤一郎の『秘密』のラストの、秘密なんてぬるいものではなくもっと毒々しいものを!となってしまった…的な描写も例に挙げられると思う。
(3)ただ、最初に鈍くなる感性というやつも曲者で、これはある意味、それまでどれほど感性豊かな体験をしてきたか、どういう感性の人とつきあって「面白い!」を磨いてきたか、そういう積み上げというか教養というか間口の広さのような面もあるように思うので、相手によっては100%の状態で既に感性が鈍い、ということも十分あり得てしまう。そうなると端からおはなしにならない。

4 身体だけ生きている状態
(1)感動がなくユーモアがなくなると人間は生きていけないかというと、とりあえず身体は死なない。栄養がそこそこ行き渡って神経も循環器も免疫などなども元気で、生体をそこそこ再生して維持できる状態なら、とりあえず身体は死なない。
(2)ただ、その状態でもおまんまを頂く必要があり、食い扶持を稼ぐためには何らかの仕事をしなければならないわけで、結果、そういう感動もユーモアもない奴に付き合わないといけないかわいそうな人が発生してしまう。向こうも同じく無感動ユーモア欠落症なら差し引きトントンで大して問題ではないけど、片やユーモア欠落、片や感性しっかりだと後者は辛い。

5 身も心も生きるための錨
(1)ここで、生きているとはどういう状態かと考えてみる。聖書には、人はパンだけによって生きるのではないという言葉があり(申命記8:3)、これは大事なことなので少なくとも3回は言われている(マタイ4:10;ルカ4:4)。また、人がどうやって創られたかの記述も面白い。人は「神のかたち」という設計コンセプトで(創世記1:26,27)、まず文字どおりの人の形に土をこしらえ、その後に神が息吹を吹き込んでやっと人になっている(創世記2:7)。人が人として一人前になるには、身体だけでは不十分で、相応の魂、感性があってこそ人として生きていると言える。それを忘れないように、と聖書(に限らず宗教や道徳の類)は戒めてくれているのだと思う。
(2)身体だけ生きているとどうなるのかについても、聖書にはえげつないスケッチがいっぱいある。形だけの信心など無益という戒めは、ぱっと思いついただけでも、イザヤ1:11-17、ヨエル2:13、アモス6:25、ミカ6:8、マタイ23章、ヤコブ2章などなど数知れず。これはもう「生きているとの名は持っているが、実は死んでいる」(啓示3:1)という状態。
(3)イエス・キリストは、一番大事なのは心、思い、魂を込めた信心だ!(マタイ22:37)を切り口に、人間が身体だけではなく本当の意味で生きているとはどういうことなのかを基本設計まで遡って、でもシンプルに考えましょうという提案をしたのだと思う(マタイ22:40;ルカ10:42)。

4.28.2017

Хлеб в Японии

Хлеб тоже распространен в Японии. Рецепт хлеба был принесен к стране из Великобритании в конце XIX века. Тогда эти продукты были приготовлены в общем для англичан. После Второй мировой войны хлеб становится народной едой.
Это дальневосточное государство прилагало сумасушедшее усилие к бою с США. Буквально со всем, что у нас было. В конце концов ничего не осталось после поражения. Даже продовольствий. Американская оккупационная администрация работала над восстановлением Японии с идеей "New deal", похожими на советский подходами. В рамках их борьбы с недостатком питания были предоставлены школьникам хлеб и обезжированное молоко. Кстати, мои родители родились в 1950 году и отоносятся к этим поколению. По их словам хлеб был не очень но можно кушать, а вкус молока был ужасным...
Со временем хлеб распространился по всей Японии. Кобэ является одним из крупнейших городов страны. Тамошние горажане горячо любят завтрак с толстым, мягким и ароматным хлебом.
Японский хлеб в основном пшеничный. Жителям этого архиперага нравится кушать мягкий как зефир либо губку хлеб. Покупать серый и остальные виды хлебы в стране требуется большого труда. Разные булочки тоже популярны.

A Russian word "mazut (fuel oil)" is derived from Arabic "makhzulat"

重油とお砂糖。実はどっちもアラビア語とは浅からぬ縁?

1) Does a Russian word "mazut (fuel oil)" have Arabic origin? Yes. It is derived from Arabic word "makhzulat (disposal or residual matter)" through Turkish "mazot" in the end of XIX century. Maybe, it came into Russian language through Azerbaijan.
2) Does a Russian word "sakhar" have Arabic origin as well? No. It is derived from ancient Indian root "sakkhara (sand)" through ancient Greek "sakcharon" and through Latin "saccharum". However, there is an Arabic word "sahra (desert)". It could have connection with ancient Indian "sakkhara"...

1 重油 fuel oil or heavy fuel oil
(1)出発点:和英辞典とかで「重油」を引くとheavy oilとか出たりするけど、絶対嘘やろ。そもそも英語に日本で言う「重油」という発想はあるんかいな。
(2)結論:英語にそんな発想はない(とはいえ0でもないみたいですが…)。英語で重油はfuel oilまたはheavy fuel oil。日本語の重油の「重」は重さのことではなく、粘度がはなはだしいの意味の「重」。
(3)アラビア語との関係:ロシア語で重油を意味するмазутは、アラビア語makhzulat(廃物、残留物)が起原。トルコ語mazotを経由して19世紀末にロシア語に入った(ちゅうことは、♪じゃんじゃんじゃんアゼルバイジャンを経由して入ってきたのかも)。
(重油について詳しくは、さとうさん2010年9月20日付投稿で分かりやすくまとめてくださってます)
2 お砂糖 sugar
(1)出発点:英語に限らず各国語ともskrとかzkrとかshrとか、調音位置がえらい似とる気がするけど…
(2)結論:古代インド起源(sakkhara:砂)でした!その後、ギリシア語sakcharon、ラテン語saccharumを経てロシア語сахар(sakhar)として入ったようです。
(3)アラビア語との関係:ロシア語からは裏付けられず。しかしロシア語にсахарный песок(sakharny pesok:グラニュー糖)という言い方があり、これを無理に英訳するとsugar sandと、わざわざ「砂」をくっつけた言い方があります。一方、アラビア語で砂漠はsahraだったような気が。実はこの語はインドからお嫁に来たんかな…